宗教(創価)&カルト考


「2012」その3の記事の中で

既存宗教、新興宗教、ニューエイジ思想、などが人々の現状に対する不満や閉塞感につけこんで布教する。 
と書いた。

これまでの自分の人生のさほど広くはない交友関係の中でも、宗教に関係している人は多かった。
自分だって母親に連れられて赤ん坊の時から教会(プロテスタント系)に行っていたし(苦笑い)
でも自分が成長するにつれて気付いたことは

教会に通っている(イエスを信じている)人=善良であろうと努力している人じゃない ということ

中には本当に善良であろうと努力している人もいるけれど・・・

「教会に通っているから、イエスを信じているから、 私は善い人なんです!」っていう顔と行動をしている人も結構多い。

それって本末転倒!すごく危険なこと。

この危険性はどの宗教集団、新興宗教、ニューエイジ思想にはまる人も概観は違っても全く同じ構造だと思う。

「黒い手帖」 矢野絢也 から引用


 創価学会は社会から虐げられた人、見捨てられた人の精神的支柱となって組織を拡大した。公明党もまた、庶民の政党、大衆の政党として存立意義を保ってきた。 
 今、格差社会が訪れ、無情な派遣切りや高齢者医療の切り捨てがまかり通っている。残念なことに公明党もそれに手を貸してきた。

出来たての頃、公明党は宗教団体のひも付き政党だと揶揄されたが、小さくとも清流だった。汚濁した大河に、微力ながら清らか水を注ごうと、われわれは懸命に働いた。決して自らが大河になることが目標ではなかった。今はそれが政界の汚れた大河と合流し、自身も濁流となって流れている。

 私は今こそ、公明党の結党の精神に立ち返って欲しいと願っている。創価学会も池田氏も、あの頃、我々が目指していたのは、なんだったのか思い返してほしい。
 
 今ほど、創価学会と公明党が世に必要とされる時代はない。

 創価学会と公明党のゆがんだ関係を改め、原点の精神に戻れば、創価学会は再び輝かしい歴史を刻み始めるはずである。また、公明党は弱者、大衆のための党として蘇生する。一般社会からも喜んで迎え入れられる、大衆の目線に立つ政策政党になれば、頭打ちになっている議席も伸びるだろう。私は公明党が大きな清流となる日が来ることを信じてやまない。



手帖を強奪され理不尽な目にあっても、まだわからないのか・・・と思う。

創価学会は社会から虐げられた人、見捨てられた人の現状に対する不満を利用して組織を拡大してきた。そういう人たちを戦力=実働部隊にして政党の地盤を固めた。

そして、権力の中枢に入り込み、一般信徒が今まで信じてきたものとは真逆・ファッショ的な方向に走った。

責められるべきは、池田大作一人ではないと 私は思う。

貧しい信者のなけなしのお金が活動資金になり、家族と温かいだんらんを過ごす時間を活動に費やした。
その絶対的信頼=盲目的信仰が教祖を増長させ、あらぬ方向に走り出したものを誰も止められない結果につながった。


確かに毎日貧しかったり、心が傷ついたり、家族の介護など思い苦労を背負っていたら、何かにすがりたくなるだろう。
ともに生きる仲間が欲しくなるだろう。
そうすれば、孤独からはとりあえず逃れられるかもしれない。

しかし、そうする時、心と精神、そして行動の自由までを自ら他人に差し出していることになる。




学生時代にも、職場にも子育てする仲間の中にも宗教にかかわっている友人がいた。
学会、真光、etc
普通に付き合う分には常識的であり、どちらかと言えば親切で、明るい人たちであった。

これら宗教カルト)、思想に属する人たちのすそ野は限りなく広く、日常生活の中に浸透している。


心・精神の自由を取り戻すには、自分で気付く他ない。

今、きづくためにいろいろなこと起こって、たくさんのヒントがばら撒かれている。


こう考えると、「ウイルスをばら撒く人々」 の存在意義もあるってことですね〜

これ以上のことにならないように早々と目覚めたいものです。

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善良なクリスチャンという欺瞞

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